今はごく普通の主婦であるKさんがまだ大学生だった頃、彼女は割と「軽い方」だったらしい。
「それなりに彼氏もいたんだけど、声かけられたらふらーっとついて行ってたんだよね」
その日、Kさんはゼミの飲み会に参加していた。楽しく飲んでいたのだが、誰かが言った「もうすぐ終電だ」という言葉を合図に、皆は慌ただしく帰り支度を始めた。ゼミの中でただ一人、実家暮らしではないKさんは終電の時間など気にしなくてもいいのだが、皆に合わせてしぶしぶ店を出た。
皆と別れたKさんは大学の方まで一人で戻らなくてはならない。
寂しい、と思った。
家族のいる家に帰って行く皆が羨ましかった。
誰もいない寒々しい自分の部屋を思い浮かべたKさんは、バスには乗らずに歩いて帰ることにした。それも、できるだけゆっくり。
深夜という程の時間でもなかったが、人通りはない。余計に寂しさが増したKさんは立ち読みでもして帰ろうかとコンビニの前で足を止めた。
すると、後ろからやって来た車が自分を少し追い越して停まった。赤いスカイラインだった。
「何してるの?」
車から顔を覗かせたのは三十代前半くらいの見知らぬ男性だった。
「今から遊びに行こうよ」
いくら軽いとは言え普段なら断るところだが、何となく寂しくて車に乗りたくなった。助手席の方へ回ると、すでに運転席から身を乗り出した男性がドアを開けてくれていた。
「ボーリング行く? それともカラオケとかの方がいい?」
つい乗ってしまったものの、別に何かをして遊びたいわけではない。黙ったままのKさんに、質問が重ねられる。Kさんは早速後悔し始めていた。車から降りる理由を頭の中で作っていると、どこかの駐車場に停まった。
サイドブレーキが引かれた瞬間Kさんは「あ、来る」と思った。
思った通り、彼は助手席の方へと体をずらして覆いかぶさって来た。すでに興奮しきっているらしく、熱い吐息を前髪越しに感じる。咄嗟につかんだ彼の腕も熱かった。さっきまであんなに冷めていたのにその熱がうつったのか、気が付けばKさん自身の息も上がっていた。
彼のぎこちない指が脇をかすめ手のひらが胸を押しつぶす。反対の手はすでにスカートの中に滑り込んでいた。彼の為すがままに呼吸を荒げるKさんだったが、下着に手をかけられると喉の奥から小さな悲鳴が上がった。
彼の指先があまりにも冷たかったのだ。下腹部に触れる指はまるで氷のようだった。それが自分の中に入り込んできた瞬間、腰から全身へ、一気に寒気が広がった。
「やめて!」
そこで初めて抵抗した。指をずるりと引き抜いた彼は、意外にもあっさりとKさんから離れた。おそるおそる見上げるとどこか冷めたような表情の彼と目が合う。
逃げるなら今しかない。
そう思ったKさんは腰まで捲れ上がったスカートはそのままに、助手席のドアを開けて勢いよく外に飛び出した。彼は追いかけては来なかったが、車の中からじっとKさんを見ていたのだという。
それからも度々夜道を歩いて帰ることがあったそうだが、再び彼に遭遇することはなくKさんは大学を卒業した。その後彼女は地元に帰らずに大学の近くで就職し、そこで出会った人と結婚、妊娠を機に退職した。
慌ただしい生活を送るKさんは大学時代のことなどすっかり忘れていたのだが、卒業から十年ほど経った頃、ゼミの同窓会が開かれることになった。
当時パートもしていなかったKさんにとってその頃の話し相手は家族だけ。久しぶりに家族以外と交流ができると大喜びで参加した。
しかし期待していたような再会にはならなかった。
というのも、参加者の中で主婦はKさんだけで、他の皆はまだ現役で働いている人ばかりだった。大都市にある有名企業で高い役職に就いている人、外国の大学で研究をしている人、自分で会社を興した人。やりがいのある仕事している彼らは輝いて見えた。
中にはKさんと同じように子供がいる人達もいたが、彼女達の話題は専ら「家事と仕事の両立」について。Kさんはその輪に入れなかった。
旧友との再会は確かに楽しかった。
だが、自分はその場にいてはいけないような気がして二次会の誘いを断って一人会場を後にした。
駅に向かって歩いていると、劣等感が胸の中でじわじわと大きくなってくる。皆に比べると私の世界は狭い。皆に比べると私の生活は寂しい。
不毛なことをぐるぐると考えているうちに駅に着いた。このまま改札を通って電車に乗ってしまえば、いつもの寂しい生活に帰ってしまう。かといって他に行く当てもない。どうしようかと考えていると、ロータリーに一台の車が入って来た。
車はゆっくりとロータリーを進み、一人佇むKさんの横で停まった。
いつかと同じ、真っ赤なスカイラインだった。
静かに運転席のウィンドウが下がり――
「何してるの?」
その一言にKさんは体中の血が一瞬で冷たくなるのを感じた。まさかそんなはずがない。同じ男性のはずが。二十年近くも経っているのだから。
しかし、男性の顔は、見ることができなかった。見てはいけない気がしたのだ。
「当時のこと一気にわーっと思い出して、それで寂しい自分が急に恥ずかしくなって」
我に返ったKさんは慌てて駅に駆け込み、すぐにやって来た電車に乗り家に帰った。家で自分の帰りを待ってくれていた家族の顔を見るとほっとした。
自分にとって今の生活は安心できる場所には違いないのだが、時々こんな人生でいいのだろうかと思うことがあるのだという。
「やっぱり他人と比べると私の人生は寂しいけど、寂しいって思うとまたあの車が来そうだから」
特に嬉しいことや楽しいことのない寒々しいだけの生活だが、寂しさに落ちないよう気を付けて過ごしているそうだ。