浮気の匂い

四十代のWさんは、数年前に離婚した。

女癖の悪かったWさんの若い頃を知る友人達は皆、離婚理由は彼の浮気だろうと噂したが、実際はその反対なのだという。

セックスレスを理由に奥さんから離婚を切り出され、改善しようにも当時多忙を極めていたWさんは為す術もなく同意せざるを得なかった。三人の子供の親権は奥さんが持つことになり、Wさんはあっという間に一人ぼっちになってしまった。

かつて賑やかだった家が寒くて暗い場所になって初めて、Wさんは奥さんの孤独を想った。

若い頃は確かに浮気もした。二股をかけていたこともある。しかし結婚してからは心を入れ替えた。家族の幸せのために一生懸命働いてきた。それなのに、いや、それだから、仕事ばかりで家族を顧みない自分に愛想を尽かしたのだろう。離婚からしばらくは自分のことを責めていた。

ところが、ある日奥さんが再婚したことを知った。離婚が成立してからおよそ半年後のことだった。知人から、奥さんと相手の男性は離婚前から関係があったのだと聞かされた。

要は、遊びのはずの不倫が本気になったためにWさんは捨てられたということだろう。或いは初めから本気だったのかもしれない。自責の念は激しい恨みへと変化した。復讐してやろうという気持ちだけでしばらく生きていたが、今さら不倫の証拠を集めることもできず、その気持ちはやがて絶望に変わった。

 

そして最終的に、死んでしまいたいと願うようになった。

具体的な方法は決めていなかったが自分の死後、家を片付けるであろう両親のことを考え、まずは要らない物を処分することにした。

Wさんが真っ先に手を付けたのは家族が残して行った物だった。奥さんの持ち物はほとんどなかったが、子供に買ってあげた物はほぼそのまま残っていた。

悲しいけれどどこか暖かい気持ちになり、ひとつひとつを手に取ってみる。小さなリュックサックに小さなボール。大好きだった木のおもちゃ。よく一緒に遊んだボードゲーム。
そして絵本を開いた時、おや、と思った。ふわりといい香りがしたのだ。
その香りに、Wさんは覚えがあった。

独楽のような形のガラス瓶に入ったピンク色の香水。その香水の持ち主は、奥さんとまだ付き合っていた頃――十数年ほど前なのだそうだ――の浮気相手だった。

クラブで出会った彼女には恋人がいることを隠して近づいた。そのためWさんの自宅に彼女を招くことはなかったが、彼女の部屋にはよく行った。そこで何度も関係を持った。何度目かのセックスの後、付き合ってほしいと迫られた。面倒くさくなったWさんはその場ではとりあえず了承し、家に帰ってから電話やメールをブロックした。出会ってから僅か二ヵ月後のことだった。

正直、体だけの関係なら他にも何人かいたし、これといって特長のなかった彼女のことは顔すらはっきりと思い出せない。

ただ、彼女が行為の後によく香水を部屋中に振りまいていたのは覚えている。部屋に残る互いの体液の臭いを消すためだったのだろう。

花のような甘ったるい匂いが自分にも染み込みそうで、彼女が香水の丸いキャップを外す度にWさんは少しだけ嫌な気分になっていた。

その懐かしい香りが、なぜか子供の絵本から漂ってきた。

彼女とのことをあれこれと思い出していると、死にたいという気持ちが徐々に薄れていった。家族に捨てられた自分は惨めだけど、これまでの人生は何も悪いことばかりではなかったじゃないか、と。

自殺を思いとどまったWさんは、浮気相手の彼女がボロボロの自分を見かねて助けてくれたのだと固く信じている。できれば直接会ってお礼を言いたいのだそうだ。
彼女との再会を夢見ながら元気に生活している彼は、今はもう別れた奥さんを思い出すことはほとんどないという。

 

 

 

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