DV

関西で飲食店を経営する男性から伺った話。

「わしの妹やねんけどな」
と言って始まったのは、八歳年下の妹、英子さんが結婚して数年経った頃――今から約二十年前――の話である。

その頃の英子さんは夫である利之さんからの暴力に苦しんでいた。結婚後すぐに始まった暴力は、初めのうちこそ小突かれたりつねられたりといった程度のものだったが、数年後には顔であろうと体であろうと容赦なく拳骨で殴られるまでにエスカレートしていた。

そのため、常に顔か体のどこかしらに痣や傷があった英子さんは人目を避けて生活していた。近所の人に見られでもしたら、きっと陰であることないこと言われるに違いない。そうして自ら周囲との関わりを絶ち、苦しくて痛いだけの夫婦の世界に閉じこもってしまった。

そんなある日の夕方、「すみませーん」という男性の声が庭の方から聞こえて来た。
行ってみると三十代前半くらいの若い男性が庭に立っていた。
「あの、すみませんが」
英子さんは網戸一枚隔てた向こうにいるその人に全く見覚えがない。
「何でしょう?」
「あの……はどちらに……か?」
何か探しているようだがよく聞き取れなかった。もう一度聞こうと、英子さんは網戸に手をかけてわずか数センチほどの隙間を作る。
その瞬間、男性は網戸の縁を掴み、そのままぐぐっと隙間を広げて家に上がり込んできた。咄嗟のことに声も出せない英子さんを置いて、男性はどんどんと勝手に家の中を進んで行く。

すると、玄関が開く音がした。
「ただいま」
利之さんが帰って来たのだ。助かった。英子さんは急いで玄関へと向かう。

そこに男性の姿もあった。
英子さんからは背中しか見えなかったが、彼は玄関で靴を脱いでいる利之さんをじっと見下ろしているようだった。その利之さんはと言えば、口をぽかんと開けたまま男性の方を見ている。どうしたもんかと二人の後ろでおろおろしていると、利之さんが「親父……?」と掠れた声で呟いた。

それを聞いた男性は、いつの間に持っていたのだろうか、柄の部分にガムテープでテレビのリモコンをくっつけたハエ叩きを振りかざし
「お前、こら!」
と利之さんを怒鳴りつけた。

利之さんは慌てて玄関の扉を開けると脱いだ靴もそのままに、裸足で外に逃げ出した。男性も後を追いかけて出て行き、英子さんは一人家に取り残されてしまった。

利之さんが帰って来たのはそれから数時間後のことだった。
男性についての説明はなかったし、英子さんもまた、あえて聞こうとはしなかった。ただ、二人がまだ恋人だった頃、若くして亡くなった利之さんの父親の写真を見せてもらったことがある。写真の彼はどんな顔だったか思い出せないけれど、利之さんの様子からしてきっと間違いないだろう。
その日以来、利之さんから殴られることはなくなった。

「その話聞いた時に初めて利之くんの暴力のこと知って。わしもお袋も離婚せえ言うてんけど」

英子さんは、柄の部分にガムテープでリモコンをくっつけたハエ叩きが”同じ”だと言ったそうだ。

暴力がまだエスカレートする前、利之さんはハエ叩きで英子さんをバチバチと叩いていた。そのハエ叩きの柄には細長いリモコンがガムテープでぐるぐると貼り付けられていたというのだ。そのうち利之さんが拳骨を使うようになってからリモコンは取り外され、ハエ叩きは捨てられたのだろうか、家の中で見なくなっていた。

――どうして暴力をふるうようになったのか、その境遇を考えるととても利之さん一人を責める気にはなれない。

そのような理由で、英子さんは結婚生活を続けると決意したのだそうだ。以来、異常だった夫婦の関係は改善され、本来の明るさを取り戻した英子さんは積極的に近隣の住人たちとも関わるようになったという。

「良い親父さんや。息子の暴力から嫁さんを助けたんや」

そう言って、彼は嬉しそうに笑うのだった。

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